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腐海のほとりに佇んで    藤下真潮
錆びた自転車の車輪を眺めながら  第2回 遠藤 浩輝『EDEN』
初出:「漫画の手帖 」 

 腐海のほとりに佇んで 錆びた自転車の車輪を眺めながら  第2回 遠藤 浩輝『EDEN』

 今回は遠藤 浩輝「EDEN ?It's an Endless World!?」です。月刊『アフタヌーン』97年11月号より連載され、08年8月号にて完結。全127話で単行本は全18巻。
少女マンガでもないしマイナー作品でもなくて本コラムの趣旨(一応あったんですよ)から外れるような気がするんですが、まあたまには良いでしょww(いい加減)。
 以前タイトルにユートピアの名を冠する作品はすべからくディストピアを描いているなんてヨタを書いたけど、この作品もやっぱり例外ではないんです。

 話は結構ややこしいです。
 時代は21世紀後半から22世紀初頭あたり。21世紀後半に発生したクロージャーウィルスという新種の病気により世界は人口の15%を失う。その混乱の最中グノーシス主義を軸に世界連邦の樹立を目的とした原父(プロパテール)と呼ばれる組織が国連を武力制圧し、原父連邦を設立。ただし一枚岩にすることが出来ず、イスラム連合、キリスト教右派などの宗教的民族的な対立やノマドと呼ばれる軍事組織、カルテルと呼ばれる麻薬組織との利害関係の衝突は絶えない。これがこの作品のとりあえずの世界背景。

 主人公のエリヤ・バラードは父親のエンノイア・バラードと原父連邦の確執に巻き込まれ原父連邦に拉致されかける。相棒のケルビムとともに原父連邦監視域から脱出しようとアンデス山中でノマドと遭遇する。
 15歳のエリア・バラードが様々な人と出会いそして戦いや挫折を通して成長する姿を描くのが一つのストーリーの軸である。

 もう一つの軸は、エンクロージャー・ウィルス、ディスクロージャー・ウィルス、形成されたコロイド領域、地球規模の地殻変動、宇宙からの高重力バブルと呼ぶ未知の物体の襲来等など。人類レベルの存亡に関わる災害とそれによって至る人類の救済への道筋である。
 ここでこの作品のあらすじを書いていくと実は紙面がいくらあっても足りなくなる。結構な数の主要人物とその人物の人格形成に至る過去の断片がじつに丁寧に描写されるからである。
 ですのであらすじを書く代わりに登場人物、組織、事象を解説していこうと思う。そのほうが作品世界の理解の助けにはなると思われます。

 まずは登場人物紹介。

エリヤ・バラード:本作の主人公。初登場時は15歳。エンノイア・バラードの息子。原父連邦に追われ逃走中にマーヤが格納されたディスクを拾う。原父連邦に拐われた母ハナと妹マナを奪還しようと画策する。エリアは旧約聖書の預言者の名前。ヘブライ語で「ヤハウェは我が神なり」を意味する

エンノイア・バラード:本作の準主人公。エリア・バラードの父親。第1話のみ少年の時代で登場。クロージャーウィルスとディスクロージャーウィルスの抗体を持っている。南米最大の麻薬カルテルを組織している。一時的に原父連邦に協力し、プレーローマ計画に関与していたが後に袂を分かった。エンノイアはグノーシス主義の中でプロパテール(原父)の伴侶の女性アイオーン、名は「思考」を意味する。

クリス・バラード:エンノイアバラードの父親。アメリカ軍に所属していた。プレーローマ計画の初期メンバー。エンノイアによって殺害される。

ハナ・メイオール:エリアバラードの妻。クロージャー・ウィルスの抗体を持つ。夫の組織をよく思っていないため旧姓を名乗っている。原父連邦に拉致され、奪取作戦の際に重症を負い半身不随となる。

ジナ・バラード:エリアの姉。ある事件を切っかけに父親に反発し麻薬に溺れる。更生しかけたときにテロに巻き込まれ死亡する。「ジナ」の意味はジャイナ教の開祖バルダマーナ (マハービーラ ) の尊称。もともと勝者という意味でジャイナ教のみならず仏教などでも用いられる場合がある。ジャイナ教はジナの教えという意味である。

マナ・バラード:エリアの妹。原父連合に拉致される。体内に暗殺用のマイクロマシンを埋め込まれ組織の監視下から抜け出せないようにされてしまう。「マナ」という言葉は宇宙に遍在する非人格的,超自然的な力をいう。本来はメラネシア語で「力」の意。

ソフィア・テオドレス:実年齢は41歳だが10歳の容貌の義体を持つサイボーグ。優秀なハッカー。もともと原父連邦に所属していたがノマド側に寝返った。それぞれ父親の違う8人の子どもを産むが子どもを愛することができなかった。サイボーグ手術を受けたことにより初めて母性を得ることが出来た。ソフィアは、プレーローマでの最低次アイオーンで、彼女の欲望によって、この世が生み出された。名は「叡智」を意味する。

ケンジ・アサイ:ノマドに所属する戦士。己の肉体のみを研ぎ澄ました最強の戦士。ただし精神的には脆い部分を抱える。表には出さないが母性に餓えている。

マーヤ:プレーローマ計画により生み出された特殊な人工知能プログラム。少年の肉体にインストールされている。人類がコロイドに入ることによりこの世から無意味な死をなくし、新しい宇宙を作ることで世界を救うことを目的とする。マーヤのプログラムはプレーローマの初期メンバーであるロバート・ジンマーマンにより作られた。ジンマーマンはプログラム作成後、「私がこれを書いたのではない、何者かによって書かされたのだ」という言葉を遺し自殺した。 マーヤはインド哲学で「人を幻惑させる力」の意味を持つ

レティア・アレテイア:マーヤのディスクからコピーされた人工知能体。死んだ少女の脳を初期化したサイボーグ体に移植された。マーヤが救う世界からこぼれたものを救済するのが目的。アレティアはギリシャ語で真理を意味する。

ケルビム: 自律学習型AIを搭載した人型軍事兵器。イスラエルとMITにより共同開発された。意図的な暴走事故の後は破棄されていたがエンノイアが修理。その後はエンノイアとエリアとともに行動するようになった。ケルビムはエデンの園を守る天使の名。

キール・シリンガー:原父連邦議長。プレーローマの初期メンバーの一人。ソフィアを一流のハッカーに育てた。

 まだまだ主要人物は多いのですが、きりがないのでこの程度に。登場人物紹介でわかるように、全編にわたり宗教やグノーシス主義に関する用語が散りばめられている。とくにグノーシス主義に関しては単にギミックと言うだけではなく実は作品テーマに深く関わっている。そんなわけで組織や事項などに関しては、宗教やグノーシス主義に絡めて説明します。

原父連邦:2086年、ニューヨークの国連本部を武力制圧し北米とEUを拠点に樹立された。国連機関は原父連邦に引き継がれる。連邦領域内を「グノーシア(智)、領域外を「アグノーシア(無智)」と呼称する。プロパテール(原父)の意味はグノーシス主義における世界の始まる原初にいたとされる超神的存在。

ノマド:「遊牧民」を意味する国際武装集団。宗教や人種をを問わず軍事力を商品として世界各地に戦闘員を派遣する。原父連邦とは対立している。

カルテル:
エリヤ・バラードが設立した南米最大の麻薬密売カルテル。

プレーローマ計画:原父連邦が成立する前から存在したプロジェクト。原父連邦成立後も引き継がれる。マーヤもその成果の一つ。プレーローマとはグノーシス主義における人間の霊の本来的故郷とされる神の住む領域のことである。

クロージャーウィルス:免疫系が過剰化し一切の細胞代謝を停止させるウィルス。外皮が硬質化し人を死に至らしめる。

ディスクロージャーウィルス:クロージャーウィルスが変異し、細胞が自己と非自己を区別しなくなる。最終的には周りの生物、無生物含めあらゆるものと結合して結晶化を行いコロイドと呼ぶ領域を形成する。

コロイド:ディスクロージャーウィルスにより結晶化された領域。取り込んだ人間のDNAや記憶情報をストックする。地球規模の地殻変動をきっかけに世界中のコロイドとネットワークをつなぎヴァージニア諸島付近にビッグバレルと呼ぶ巨大なレーザー発信器の塔を形成する。

アイオーン:クロージャーウィルスを利用して作られた不死の戦闘用生物。グノーシス主義の中でのアイオーンはプレーローマに住む神的存在。教義によっては神より天使に近い存在。

高重力バブル:宇宙から飛来してきた重力と反重力が拮抗した直径4キロ程の謎の高エネルギー体。コンピュータシュミレーションの結果から地球近傍で崩壊し強力なガンマ線バーストを発生すると予測されている。

 ここでこの作品上最も重要なグノーシス主義について説明します。
 グノーシス主義とは、紀元1世紀頃の東地中海地域で興った思想(宗教)である。 キリスト教の単なる異端派と捉えられることが多いのですが、実態としてはゾロアスター教、ズルワーン教、ユダヤ教異端派、ヘルメス主義、キリスト教などの宗教や民族の枠を越えて生まれたかなりハイブリッドな宗教である。
 ハイブリッドだけあって流派によっているんな説明がなされているが、グノーシス主義の代表的な理念は次のようなものである。
 この宇宙は、貧困や不平等や暴力に満ちた不完全な存在である。なぜ世界が不完全なのかといえばヤルダバオートという肉体と魂は持つが霊を持たない不完全な神により造られたからである。人間もまた ヤルダバオートにより肉体と魂を作られたので不完全な存在であるが、唯一霊だけが真の正しい神「プロパテール(原父)」につながるものである。つまり人間の霊は不完全な宇宙と肉体という牢獄に閉じ込められた存在なのだ。
 この霊の救済がグノーシス主義者の目的となる。救済に必要な手段はグノーシス(知識)だけである。真の神と牢獄としてのこの宇宙について正しく理解することが、霊を救済する手段なのである。
 知識を得ることで霊は肉体と魂から解放され、真の神の領域(プレーローマ)に復帰し救済される。そうして全ての霊が救済されたならば、宇宙は牢獄としての意味を失う。それは同時に宇宙が消滅するときなのである。

 ちょっと余談に入りますが、個人的には宗教と科学という二つの理念は対立するもののようでいて実は同じようなものじゃないかと思うことがある。
 現在の量子物理学の最先端に超弦理論というものがある。物質の基本単位は0次元の点粒子ではなく1次元の弦のような構造を持っていると考える理論である。なぜこのような理論が出てきたかといえば0次元の点粒子で粒子間の重力を計算するとその大きさが無限大になるという矛盾が起きるからだ。これを解消するものとして考えられたのが超弦理論である。ところでこの超弦理論が正しいと仮定すると今度は重力子の質量が0にならないという数式上の矛盾が起きる。どうすればこの矛盾を解消できるかといえば、数式中の次元数が4ではなくて10ならば重力子の質量は0になる。つまりこの世は4次元(空間+時間)ではなく10次元でなくてはならないのである。しかしどうこの世界を眺めてみても10次元の空間があるようには見えない。実のところ余った6次元はプランク長(10のマイナス35乗メートル)以下の空間にカラビ・ヤウ多様体としてコンパクト化されている(要は観測不可能)ということになっている。
 そろそろ書いてる方も訳分かんなくなってるのでここらへんでやめときますが、ようするにこの文章読んでなるほどそうだったんですかと納得する人はまずいないということである。科学の最先端というもの一般の人間にとって普通に理解が及ぶ範疇ではなくなっているのだ。それは「神は6日で世界を作られた」という言葉とどのくらいちがいがあるのだろうか。理解することのないまま、信じるか信じないか単にそれだけの話になってしまっているのである。そして理解のないまま信じるのであれば宗教も科学も同じものでしかありえない。
 まあ、もっとも科学というものは本来神が作り給うたこの世界を正しく理解したいという欲求からうまれたものである。その意味では量子物理学というのはグノーシス主義者が救済のよりどころとするグノーシス(知恵)に限りなく近いものかもしれない。
 理系のくせにこんなことを考えたりもします。まあ余談ですね。

 遠藤浩輝の「EDEN」は宗教と科学という大きな枠組みで「私たちは一体何のために生まれたのか。私たちはどこからやってきてどこに向かっているのか」という人類普遍のテーマを描いた作品だと思う。
 人によっては「エヴァンゲリオン」との類似性をあげる評者もいますが、「エヴァンゲリオン」と違って、設定が充分に練り上げられているし 、何よりストーリーに破綻がない。また厨二病的側面も少なくて大人の作品に仕上がっています。更にはエンターテインメントに徹していてSFにつきまとう退屈さは微塵も感じさせない。現在手に入りやすいSF大作マンガとしては店主一押しであります。
 ただし殺戮描写はリアルでバーゲンセールのごとく人がバッタバッタ死んでいくし、セックスやドラッグの描写もちょっとえげつないので万人向けでは無いです。困ったもんです(笑)。

 

 

 

東京都公安委員会許可第301020205392号 書籍商 代表者:藤下真潮