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今回ご紹介する物は、主に街頭紙芝居として使われた物です。 紙芝居には幼稚園や小学校などの教育用に使用された印刷紙芝居と呼ばれる物と、昭和初期(昭和5年頃)から昭和30年代頃(地域によっては40年代頃)まで紙芝居屋と呼ばれた移動菓子販売業の人が客寄せのために使用した街頭紙芝居と呼ばれる物とに大別されます。 まずはちょっとだけ街頭紙芝居の歴史を説明いたします。 紙芝居屋は、昭和5年頃に興り「黄金バット」(作:鈴木一郎、画:永松武雄、貸元:蟻友会)や「少年タイガー」(作画:山川そうじ 貸元:そうじ映画社)等の影響で首都圏を中心に爆発的隆盛を誇るようになります。しかし内容的にエログロが多くなり、教育的に良くないとの社会的批判を受けたり、戦争へと向かう国情の中、物資不足、徴兵などの影響により昭和11年頃のピークで全国に1万2千人ほどいた紙芝居屋は、昭和15年には7,8千人まで減少します。さらに戦争へと進む中、国策啓蒙用の印刷紙芝居が隆盛を誇るようになり、終戦にかけて街頭紙芝居は、いったん壊滅してしまいます。 今回ご紹介する街頭紙芝居は、全部で14点。そのうち3点は純粋な紙芝居屋用ではなく、戦後の大衆啓蒙用に作成された物です。これに関しては後述いたします。 印刷紙芝居と街頭用紙芝居の構造的違いに関してちょっと説明いたします。印刷紙芝居とはその名の通り、印刷機によって同じ作品が何千部と作られております。それに対し街頭紙芝居は1作品(1話)につき基本的に1部しか作られませんでした。それは街頭紙芝居の貸元が多数の紙芝居屋を抱え、その1部を順番に貸し出しして行くというシステムを取ったからです。そのため作るのは一部でも毎日最低3作品(紙芝居屋は一つの場所で男の子向け、女の子向け、幼児向けの3話構成で演じられることが多かった)は作成する必要がありました。何百人という紙芝居屋に貸し出されることが前提のため、街頭用紙芝居は基本的に裏にボール紙のような厚紙を貼り、表面には透明ニスを塗り補強されております。一人の作者が作話、作画、彩色を行うこともありましたが、規模の大きい貸元では、分業されているケースもありました。 人気がなければ数話で終わり、人気が出ると何百話にも渡る作品になりました。観客である子供たちの人気を直接反映するにも、この毎日新しい作品を作り続けるというシステムは上手く機能したようです。
左は「黄金バット」に並ぶヒット作となった「ライオンマン」です。『激流ヨルダン編』とあるように人気作は何シリーズに渡って制作されました。またこの「ライオンマン」は、雑誌の絵物語としても連載されたり、うしおそうじの「快傑ライオン丸」のモデルにもなったりするくらい人気がありました。右は同じ「ライオンマン」の裏面の台詞書きである。話者が時代変化や子供たちの反応を見て、台詞を修正したりした部分がみてとれます。 しかしこの観客の人気にダイレクトに反映させるシステムは、人気に迎合するという面にも直接作用したようです。戦前に批判を受けた、エログロに流される傾向が再び出てきて、また批判を浴びることとなります。
左は、新友会:藤沢信作画の「魔人」です。双子の弟の陰謀により豹の脳味噌を移植された科学者が魔人となって犯罪を起こすという、かなり猟奇的な話になっています。右は、同じ藤沢信作画の「ザロンの実」。活劇的なお話にもかかわらず、エロチックな描写がみられます。 こちらは、一誠会の「ドラゴン仮面(とどろき少年シリーズ)」の中の一枚。女の子が縛られて、ピラニアのいるプールに落とされそうになるシーン。 これらの紙芝居の大半には自主検閲の団体だった紙芝居倫理規定管理委員会の審査済みの印が押されています。 しかしながら、この自主検閲の根本であったGHQのCCD(Civil Censorship Detachment:民間検閲支隊)は、思想関係にはかなり敏感ででしたが、エログロ等の表現にはかなり無頓着でいたようです。この自主検閲もどの程度機能していたかはよく分かりません。 最後に厳密には街頭紙芝居と呼ぶことは出来ませんが、終戦間もない頃に作られた個人制作の紙芝居3作品を紹介したいと思います。 この紙芝居は福岡県田川郡で1947年12月頃、作られ、演じられた物の様です。
「荷車」は、当時社会問題となっていた米の供出に関する話題を描いた作品。「日本の歌」は、エネルギー不足を補う為の増炭。「私たちの村」は、農民の民主化、合理化を促す題材となっています。この3作品には珍しいGHQ・CCDの検閲印が押されています。 CCD IIIは福岡市内にあった第三地区民間検閲支隊を指す また紙芝居の一部に当時の地方新聞の切り抜きが貼り付けられていたりします。その内容から類推して、この3点の紙芝居が当時の福岡県軍政部司令官マンスキー中佐の肝いりで作られたフシがあります。GHQは占領に際しこの日本独自の紙芝居というメディアに非常に注目しておりました。とくに戦争賛美と共産主義教育に関しては、非常にナーバスでした。そのGHQが紙芝居作成に関与していた可能性があるということは、非常に興味深いことです。
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東京都公安委員会許可第301020205392号 書籍商 代表者:藤下真潮 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||